工場管理が抱える今日的課題

戦後の荒廃から立ち直り、やがて、“ものづくり大国”と呼ばれた日本。しかし1990年代初めピークを越えた以降、じり貧の坂道を転げ落ち続けている。

昨今、IoTだ、AIだ、DXだと騒がしい。

“ものづくり大国・日本”復活のまたとない絶好のチャンスとなるのか、はたまた、下り坂の傾斜がまた一段と急になり、衰退の速度を増すことになるのか。

“ものづくり大国・日本”を築き上げた原動力は何だったのか。そしてその後、回復の兆しも見えぬまま長期停滞を続けている要因は何なのか。

この問題は、これまでも、関連する様々な分野の専門家諸氏がそれぞれの立場から分析し、論じてきている。あまたの提案も出ている。異次元の金融緩和もそのうちのひとつであろう。立ち向かうにはとてつもなく広くて大きなテーマだ。

大風呂敷を広げても徒労に終わる。本Websiteのテーマである“工場管理 維新”に的を絞ることにする。と言っても、工場管理の管理要素も多岐にわたる。要素間の相互作用、因果関係、従属関係、トレードオフの関係等々、何が重要なのか。先ずは、工場管理に関するこれまでの出来事を振り返り、現状を浮き彫りにする。

1. 20世紀の工場管理を振り返る;
自動車産業に注目して

18世紀の産業革命以降、産業の中心であり続けている自動車産業に焦点を当て、今日までの工場の歴史的変遷を概観してみたい。

1.1 大量生産の始まり

1.1.1 産業革命そして大量生産へ

産業革命は18~19世紀にかけて、イギリスで起きた。人力、家畜力から石炭を燃料とする蒸気機関によるパワー転換と工業製品の登場だ。製品の種類は少なく、基本的には1台ごとに手作業で部品を現物合わせして組み立てる個別生産であった。

大量生産が可能となった重要な要因は、どの部品でも組立ができる互換性生産が実現したことによる。

互換性生産は19世紀初め、武器の性能の悪さとその供給不足に悩まされていた米政府が、民間企業の協力で工作機械・工具・測定器具などを開発し、銃器の大量生産を行ったことが始まりとされている。コストは手作業より高かったが、大量に造ることができ、また戦場での修理が簡単であったことが政府にとっては重要であった。

熟練労働者が少なく、一般の労働力も不足気味だったため、機械の利用が積極的に図られていたこと、商品そのものもヨーロッパのような装飾的なものではなく、実用性を重視した規格品が好まれた、などの社会的背景も大量生産方式がアメリカで生まれた理由に挙げられる。

1.1.2 科学的管理法と生産性向上運動

20世紀に入り、科学的管理法がテイラーによって提唱された。仕事を要素作業に分解し、時間研究により労働者の一日の作業量を課業として定める。その課業の遂行を通して生産能率を上げようとするものであった。定型作業(反復作業)を前提にした生産ラインの最大効率を狙う科学的管理方法は、大量生産方式の管理方法として、以降多大な影響を与えた。また、従来、作業量・スピード・作業方法などは労働者の裁量に任されていたものが、資本側(管理側)に移ったのも科学的管理法の導入がきっかけであった。(成行管理から課業管理への移行)

1914年に勃発した第一次世界大戦をきっかけに、軍需生産が活発となった。その生産性を上げるために、米国政府は国家統制色の強い行政指導による「生産性向上運動」を開始する。この体制は戦後も存続し、それにHooverの提唱する「産業無駄排除運動」が加わった。それぞれの産業分野で、それぞれの企業が独自に製品開発をしたため、形・大きさ・長さ・重さ・色など極度に多様化していた。これが、産業活動のあらゆるところで無駄を生んでいたというのだ。これを正すべく、「産業無駄排除運動」は標準化対策を中心に推進されることになる。この標準化運動は産業レベル、国家レベルで行われ、この進展を通じて少品種大量生産が志向されていった。

1.1.3 フォード生産方式;流れ生産

20世紀初め、大量生産が始まる。大量生産の代表例は移動式組立ライン(コンベアライン)による流れ生産で良く知られているフォード生産方式だ。仕事を単純作業に分解し、コンベアで同期をとる。組立ラインだけではなく、「鉄鉱石を溶鉱炉に入れてから完成車が出てくるまで81時間」で象徴される一貫生産で、材料から完成車まで全工程の垂直統合が図られた。

フォード生産方式はベルトコンベアを使った流れ作業が特徴であるが、もう一つの特徴はT型フォード一車種しか生産しない専用ラインだったことである。車(あるいは部品)がコンベアに乗って流れてくる。一連の組立作業は単純作業に分業化され、コンベアの流れる速さに合わせ作業員が配置される。作業員はほとんど待つこともなく、流れてくる作業にとりかかることができる。コンベア上で移動する車(あるいは部品)の台数は必要最小限で済み、余分な仕掛はない。フォード生産方式は「できるだけ多くの数量」を「できるだけ速く」つくる驚異的な生産性の向上をもたらした生産方式であった。この生産ラインでT型フォードは、1909年から18年間に渡って1,500万台生産された。

大量生産によるコストダウン→販売価格の低下→販売台数増→生産台数増→量産効果によるコストダウンのサイクルがうまく回転し、1910~20年代はフォードの独走が続く。

フォード生産方式は黒色のT型フォード一車種でも飛ぶように売れた市場環境が成立の条件であった。市場がいつまでも黒一色のT型フォードだけで満足するわけはない。色や大きさ、グレードなど市場の要求は多様化していく。

1.2 GMの巻き返し戦略

1.2.1 フルライン政策

後塵を拝したGMは1920年の恐慌で経営の危機に直面する。これがGMの反撃のきっかけとなった。

恐慌とは言え、市場のニーズは多様化が進む。GMのとった政策は、低価格モデルから高価格モデルまで価格段階と仕様をうまく組み合わせ、「どんな財布にもどんな目的にもあった車」を目指すフルライン政策であった。

生産車種を増やすことはそうたやすいことではない。新車の開発から製造、販売、メインテナンスと事業全体にかかわる。量産効果が薄れ生産性が低下する逆効果も目にみえている。苦境に陥ったGMがとる戦術として、フルライン政策はいささか大胆過ぎるようにもみえるが、時代の流れに乗っていたことも見逃せないことである。

1.2.2 政府の後押し;機械化・自動化による生産性向上

時代背景を確認しておく。前述の通り、米国政府は第1次世界大戦をきっかけに、軍需品の「生産性向上運動」を始めた。これが戦後の「産業無駄排除運動」へとつながり、形状の標準化を中心に推進される一方、作業や原価計算の標準化も進められた。

部品の標準化は、無駄を排除するだけではなく、部品と他の部品との組み合わせの範囲も広げた。その結果、部品の量産性を維持しながら、製品の多様性を拡大することができた。これがフルライン政策を成功させた要因のひとつである。

生産の拡大とともに、分業と機械化はさらに推し進められ、部品の生産と組立に至るそれぞれの工程は専門化し、独立化していく。生産効率を上げるため、生産ロットは大きくなり、加工スピードも速くなる。機械化や自動化も発達し、エンジン工場のシリンダー・ブロックの加工ラインはまったく人の手を介すことなく、鋳物ブロックが自動的に送られ加工されるようになった。従来の生産時間の10分の1に短縮されたといわれる。機械化と自動化は19世紀の工業化以来アメリカの伝統だったが、その後も絶えることのない新鋭設備の導入により生産性をさらに向上させ世界をリードした。

その他に、フルライン政策を支えた工夫はいくつかある。製品開発面では、T型のオープン・タイプに対して、室内密閉のクローズド・タイプを投入し、定期的なモデルチェンジも取り入れた。販売では割賦販売や中古車下取りを始めた。

1.2.3 管理態勢の構築;事業部制の導入

特筆すべきは、事業部制の導入であろう。事業部制は、一般的には、巨大化した組織の分権による活性化策とみられることが多いようだが、GMのそれは、寄せ集めの雑多な組織を事業部としてまとめ、統合的な経営をするためだった。

統制の仕組みの改革も行った。先ずは、経営危機に陥ったGMが取り組んだのは、膨れ上がった在庫の削減である。1920年9月、2億1,500万ドルあった在庫を、1922年6月には9,400万ドルに削減した。1921年には、10日ごとの生産データと販売台数データの収集を開始。また、全国31州の月別自動車登録台数の調査を始めた。1922年からは各事業部長に4カ月ごとの1年間の業績予測の提出を課し、さらに1924年から25年にかけて、10日ごとにディーラーから販売台数と在庫台数を報告してもらう仕組みも完成させた。1925年には販売予測を基にした生産管理方式が完成し、正確な経営予測ができるようになっていた。そして同じ頃、価格の決定・損益管理が目的だった原価計算に、間接費の配賦方法を工夫するなどして、工場管理機能を持つ標準原価計算をベースにした会計システムが完成する。

GMは数々の革新的方法を導入した。フルライン政策は、戦後のマーケティング論がいう市場細分化戦略の先駆的な事例でもあり、割賦販売、中古車下取り、モデルチェンジ、クローズド・タイプなどは現在の自動車販売方法に引き継がれている。1925年頃出来上がったGMの販売予測を基にした生産管理方式は、需要予測―販売計画―生産・販売・在庫計画―日程計画―製造指図―生産、、の生産管理サイクルを回す現在の生産管理の原型だ。原価計算と連結する会計システムの完成は、GMの事業部制の中で、財務統制による経営管理へと発展した。また機械化と自動化により、工場の生産性は飛躍的に向上した。そして1930年代に、フォードを抜き去り、GMの黄金時代と同時に米国産業の黄金時代を築くのである。

2. トヨタの登場

フォードの先行を許しながらも、米国産業を牽引する大黒柱に成長したGM。無敵とも思えたGMを脅かす企業が出てくる。トヨタである。

機械化、自動化、事業部制の導入、需要予測をベースにした生産管理体制の構築、管理会計などなど、現在の企業経営の基礎を築いてきたGM。敗戦後の荒廃の中で途方に暮れたちっぽけな町工場がGMの牙城に迫るとは、、。いったい何が起きたのか。

2.1 “部分最適”の罠に落ちたGM

繁栄を謳歌するGMは、多車種化が進む中、さらなる規模の拡大、生産性向上に拍車をかける。高速・大型機械をフル稼働させるため、ロットサイズはどんどん大きくなり、稼働率を維持するために工程間に仕掛が山積みとなっていく。原価計算による財務統制は、そのような状態を奨励さえしたのだ。

生産ラインだけではなく、極度に分業化・専門家した組織では、部門間の調整に時間がかかり、経営の意思決定が滞る。新車開発の期間も伸びる一方だった。盤石とも思えたGMの態勢に軋みが生じてきた。

生産性を上げるために導入してきた様々な仕組みの最適化を指向すればするほど、企業の生産性が低下するという“部分最適”の罠に落ちてしまったのである。

2.2 トヨタのやりかた;JIT

舞台は日本。戦後の焼け跡が消えるころから景気拡大の波に乗り多様化はますます進む。フルライン政策で世界の覇者となったGMではあるが、“部分最適”という大企業病に悩まされ色あせてくる。大量生産のメリットを維持したまま、さらなる多車種化を進めたのがトヨタである。トヨタの生産車種は、正確なデータはないが、リストを眺めると国内だけでも50車種以上。さらに色やエンジン、トランスミッションなどなど、それらを掛け合わせると一説では、数万種類にのぼると言われている。

フォードの流れ生産を取り入れ、フルライン政策と事業部制など多くをGMに習ったトヨタではあるが、トヨタが独自に生み出した概念、方法もあった。後に、トヨタ生産方式(Toyota Production System;TPS)と呼ばれるようになる。(以下、トヨタ生産方式とTPSを同じ意味で混合して使う)

TPSについては多数の関連する専門家諸氏の解説が巷にあふれている。詳細はそちらに譲るとして、ここでは大枠を捉えるため、TPSを代表する概念をひとつだけ挙げておく。

Just In Time (JIT)

である。JITの意味するところは何か。

ひとつの工程(A工程)で考えてみる。被加工物(ワーク)が流れてきたら直ちに加工を開始し、終了したら直ちに次工程(B工程)に送られ、B工程での加工が始まる。と同時にA工程には次のワークが到着し加工を開始する。

工程が加工開始可能となった時刻にワークがJust In Timeで到着する。外注も含めたすべての工程で、このような状態が維持される。

待ち状態にあるワークはゼロ。すべてのワークは必要な工程で処理されている。処理時間がすべての工程で同じであれば、その時間間隔に同期してワークは流れる。乱流や脈流ではなく、異物(不良品、過剰品、ムダ、、)を含まない清流が一定のスピードで流れる仕組となる。その結果、リソース(設備、作業員、、)の稼働率は100%、工程仕掛最少、生産リードタイム最短の生産ラインとなる。

JITは生産工場の究極的最適状態であり、トヨタが目標としていると解することができる。

2.3 トヨタの躍進;GMを抜き世界一へ

2003年、トヨタは年間生産台数でフォードを抜き、そして2008年には、ついにGMをも抜いて、世界第1位の生産台数を誇る企業へと成長するのである。

その後、自動車業界の離合集散、欧州企業の台頭などで業界地図に変化もあるが、トヨタとVW(フォルクスワーゲン)が1、2位を争うデッドヒートを展開している。

TPSがトヨタの躍進をどのように、どの程度支えているのか。詳細な議論は専門家諸氏のそれらを参照頂くとして、少なくともTPSを抜きにして、トヨタの躍進を語ることはできないのではないか。

3. 「トヨタ」に学べ;「トヨタ生産方式」の移植

フォードは分業による流れ生産を確立し、IE(インダストリアル・エンジニアリング)の基礎構築に多大な貢献をした。GMは自動化、事業部制の導入、会計システムや生産管理体制の構築などなど現在の企業経営の基盤をつくった。

では、トヨタは製造業にどのような影響を及ぼしたのか。

3.1 リーンプロダクションとして世界へ

TPSについては、1970年代の後半あたりからだろうか、日本だけではなく、世界にも知られるようになった。1980年代に入り製造大国の名をほしいままに躍進し続ける日本。その象徴的産業のひとつが自動車である。

トヨタの躍進を支えているのはTPSではないかと、1991年、James Womackらが「The Machine That Changed The World」を出版する。TPSを「リーンプロダクション方式」と呼び換え、いかに生産性の高い生産方式なのかを世界に知らしめた。これをきっかけに、日本を含む世界中で、そして自動車業界だけではなく、モノづくり産業に携わる多くの企業がTPSを導入しようとした。

3.2 トヨタ生産方式を異業種に;NPS

電気製品や蒲鉾も自動車と同じ生産方式で行えば、合理化が出来る、と考えたウシオ電機の木下幹彌、オイレス工業の川﨑景民、紀文食品の保芦將人らが中心となって、1970年代末から互いの工場で自主研究会を開くようになった。

1981年1月、NPS(The New Production System)研究会http://www.nps-kenkyukai.jp/index.htmlが正式に発足。同年10月、会員会社11社の出資により、NPS 研究会の運営母体として、株式会社 エム・アイ・ピー(MIP)が設立された。1982年、TPSの生みの親である大野耐一を初代最高顧問、その現場で陣頭指揮をとった大野の弟子、鈴村喜久男を初代実践委員長として迎え入れた。

入会資格がユニークだ。

  • NPSの経営思想に共鳴・共感する社長が経営する企業であること
  • 自社ブランドで事業を行っている日本のメーカーであること
  • 一業種一社を原則とすること

トヨタの直々のサポートを受けながら、社長のやる気を条件に、一業種一社の制限を設けて集ったNPS研究会。改善活動での情報・ノウハウを惜しみなく共有しながら、担当者の教育を行う。片手間に行っている研究会ではない。活動を支える専門組織も設立している。「トヨタを異業種に展開する」ために考えられることはすべてやっている筋金入りのコンソーシアムである。

目標も高かった。当時(1985年頃)の大企業と言えば日立、松下、トヨタ。NPS研究会参加企業の合計売上がこれらの企業を上回り、日本一になる、とぶち上げる。目指すところは生産だけではなく、企業のトータル・パワーアップを狙いとし、TPSからの離陸をもくろんでいた。

活動開始して40年。どうなっているのだろうか。

NPS研究会は今でも存命のようである。しかし参加企業がどの程度TPSを再現できたか、の情報はあまりない。1980年代は華々しい改善活動があり、篠原薫らが何冊かの書でその様子を伝えている。

少し調べてみた。NPS研究会発足から約30年後の2011年のNPS会員企業は43社で、合計売上高は3兆円。同年の日立グループのそれは9兆円、松下は8兆円、トヨタは19兆円。当初ぶち上げた目標には程遠い。

結局、30年続けても、トヨタを再現することはできなかった、とみるしかない。近況を聞くため、NPS研究会にメールで問い合わせてみたが、返事はない。

3.3 トヨタとGM;NUMMIを通した移転

1980年代に入る頃、米国と自動車貿易摩擦問題を引き起こすまでにトヨタの生産力は拡大していた。両国政府の介入もあり、1984年、トヨタとGMは米国に合弁会社NUMMI(New United Motor Manufacturing, Inc)を設立する。

1970年代辺りから経営状態が低迷してきたGMはNUMMI発足を機に回復するのかと思われたが、

2008年、ついに世界トップの座をトヨタに奪われるのである。そして2009年、GMは経営破綻し、トヨタとGMの合弁事業は解消される。

NUMMIはGMにとってTPSを学ぶ絶好の機会だった。1984年~2009年までの25年間の長きにわたって、トヨタを目の前でみてきた。“まね”しようと思えばいくらでもまねのしようがあったはずだ。にもかかわらず、GMはTPSを再現することはできなかったのである。

GMへのTPSの移転は、異業種へのTPSの移転とは異なる。得意な車種の違いはあっても、基盤技術はほぼ同じ。いやむしろ、トヨタの方がGMから学ぶところが多かったのではないか。経営破綻という予想だにしない結末を迎えたGMとの合弁事業。TPSの移転を考える場合、外すことのできない出来事である。

蛇足かもしれないが、1974年ごろ日産がかんばん方式の導入を試みたが、1984年頃に中止したことも付記しておく。日本の同業企業でもTPSの再現は難しいようだ。

3.4 バブル崩壊後;ワラをもつかむ思いで、、

日本でのTPS導入の動きも過激だった。バブルの崩壊で先行きに暗雲が漂う1990年代初め、郵便事業、官公庁、病院などなど、製造業ではない企業までもが我さきと「ジャストインタイム」だ、「ムダ取り」だ、「かんばん方式」だ、、と騒ぎたて、TPSの導入に奔走したのである。

生産リードタイムが3分の1になったとか、5分の1になったとか、仕掛削減で工場フロアーが半分で済むようになった、倉庫が一棟空になったのかんのと、成果発表合戦が繰り広げられた。

しかし「TPS狂騒曲」も時とともに静かになっていくのであった。

3.5 トヨタを再現できた企業は皆無

「ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス」2000年3月号、「トヨタ生産方式の“遺伝子”を探る」(H・ケント・ボウエン/スティーブン・スピア執筆、坂本義実訳)にトヨタ生産方式が世界中でどのように導入されたかについて、4年間にわたって行った調査研究の結果が発表された。この記事の中で

「トヨタは驚くほどオープンにそのノーハウを披露してきた。しかし不思議なことに、上手に再現できたメーカーは皆無である。数千という企業から数十万人ものマネジャーがトヨタの工場を訪問したが、トヨタに匹敵するような成果を上げることはできなかった」

と記している。

異業種にTPSを導入しようとしたNPS、トヨタとの合弁事業を通してTPSを体験したGM、バブル崩壊後藁をもつかむ思いでTPSにしがみついた多くの日本企業、、、の結末と、「上手に再現できたメーカーは皆無である」という「ダイヤモンド・ハーバード・ビジネス」が伝える調査結果が同じであるのは単なる偶然ではない。

同記事にはこんな指摘もある。

「トヨタ生産方式の分析は、なぜこうも難しいのだろうか。それは訪問者たちが工場でみたトヨタ生産方式の本質を、そこで用いられているツールや手法と取り違えてしまうからだ」

「トヨタ生産方式・・・は過去50年にわたる努力によって自然と育まれてきた賜物と言える。それゆえ一度として文書化されたことはなく、トヨタの従業員ですら理路整然と説明できる人はあまりいない。トヨタの従業員以外の人に、トヨタ生産方式がきわめて理解しにくいのはこのためである」

「トヨタ生産方式」の生成を進化論的視点で捉え、“遺伝子”の振る舞いになぞらえるのはわかりやすい。だとすると、遺伝子の偶発的な変異がもたらした「トヨタ生産方式」を再現することはできるのか。実行可能な手順を見つけることは、不可能とは言わないまでも、決してたやすいことではない。

4. 工場管理の今日的課題

工場管理の変遷を自動車産業に焦点を当て概観してみた。フォード、GMで開発された生産方法はほぼ全産業に広がった。トヨタもその流れの上に成り立っている。しかしここ50年間の変遷をみてみると、ちょっとした異変に気が付く。

トヨタ生産方式は他業種どころか同業種にも移転しない。日本的生産システムとして同類とみられてきた日本企業にもうまく取り入れられない。

4.1 TPSの影響

「トヨタ生産方式を再現した企業は皆無」とする識者の見解には少々の違和感もある。工場で日常行われている“現場改善”。あらゆる産業、業種で行われている。中身は、トヨタ生産方式のそれとほぼ同じである。今や、トヨタ生産方式は現場改善の教科書となっている、と言っても過言ではない。その効果は計り知れない。

トヨタ生産方式を代表する“かんばん方式”。種も仕掛けもないシンプルなしくみである。簡単そうにみえるがゆえに、多くの企業が、製造業だけではなく、病院や郵政事業そして行政機関までもが取り入れようとした。しかし、うまくいった事業所は皆無。

①「トヨタ生産方式を再現した企業は皆無」

ではあるが、

②「多くの企業がトヨタ生産方式を学び現場改善に役立ててきた」

のである。

しかし①と②では、万人が認める決定的な差がある。戦後の荒廃した町にたたずむ小さな町工場が30年足らずで世界に注目されるようになり、その後も幾多の経済環境の激変を経験しながら、世界トップクラスの企業に成長した実績をみればわかる。

4.2 トヨタの次がみえない

フォード、GMと進化してきた生産方式。それぞれが他の業種に移植され、産業全体の発展に多大な貢献をしてきた。その恩恵を受けたのはトヨタも例外ではない。フォードの流れ生産をベースにGMの事業部制や原価管理、生産管理体系を取り入れ、ジャスト・イン・タイムのコンセプトでトヨタ生産方式が登場した。

トヨタ生産方式が世に知られるようになって半世紀。その間、現場改善のお手本として、生産管理の教科書として、多大なる貢献をしてきたことに惜しみない敬意を表したい。しかし、トヨタに匹敵する次が出てこない。50年たっても、、それらしき姿もみえない。

4.3 目指すは工場の自動運転

これまで歩んできた道を振り返り、先行きの方向性を見定めたいと考え、工場管理に関する歴史的変遷を概観してみた。フォード、GMそしてトヨタ、、。

21世紀に入り、第4次産業革命が始まった。IoT、AI、DX、、と情報革命が同時に進行中である。地球温暖化という人類共通の避けては通れない課題もある。地層には、1950年頃から、“人新世”と呼ばれる人類の活動の痕跡が残る。

ここでは大風呂敷を広げるのは控え、課題の範囲を工場管理に限定しよう。

第4次産業革命の中で、工場管理はいかにあるべきか。カギは「トヨタ生産方式」と「IT技術」。

「トヨタ生産方式」の仕組みは極めて論理的である。守らなければならない条件も明確に定められている。その条件は複数項目の“AND(論理積)”で成り立つ。なぜ「トヨタを再現できた企業は皆無」なのか。AND条件のひとつでも欠ければ「トヨタ生産方式」の体(てい)はなさない。複数項目のAND条件を継続的に維持できた企業は皆無であったから、と解すれば理解しやすい。

「トヨタ生産方式」で最も重要な条件は「バラツキの排除」である。例えば、需要の変動。それを排除するために手っ取り早いのは生産計画の固定。だから「見込生産」が絶対条件となる。生産計画を固定しなければ「平準化」もできない。「サイクルタイムでの同期生産」もできない。平準化を前提としている“かんばん”も回らなくなる。

需要変動を、生産計画を一定期間固定して防ぐことができる業種は限られている。受注生産では生産計画を固定することは不可能だ。見込生産だといいながら途中で計画はコロコロ変わり、受注、見込が入り混じる生産現場も珍しくはない。

発想を大転換するときだ。そういいながらも、少々下世話なはなしに聞こえるかもしれないが、

バラツキがあっても「トヨタ生産方式」が成り立つようにできないのか。

それを可能にするのがIoT、AI、DXで代表されるIT技術だ。受注生産、見込生産の区別なく対応できる。つまり、市場(需要)と生産ラインをつなぐ生産計画をリアルタイムで自動生成するのである。

それはもはや、「トヨタ生産方式」とは呼ばれないだろう。しかし、これこそが“ニンベンの付いた自動化”の実現だ。需要予測→販売計画→生販在計画→日程計画→製造指図→生産→倉庫の流れを“ニンベンの付いた自働化”で、常時リアルタイムで管理するのである。トヨタ生産方式の特徴は“JIT”と“ニンベンの付いた自働化”だと言う。

人力では対応しきれないほど多様化し激しく揺れ動く需要、ますます高度化する生産工程、そしてそれらをつなぐサプライチェーンも複雑化の一途をたどる。

トヨタの真髄“JIT”と“ニンベンの付いた自働化”はサプライチェーン全体に適用できる概念だ。

”JIT“は”待ち時間の最短“と”リソースの生産性最大化“を狙う。

“ニンベンの付いた自働化”は需要の優先度に合わせて生産能力を最大限に発揮するように工程の流れをコントロールする。いわば、工場管理の自動運転である。

巷にも自動運転のクルマが走り出した。工場管理の領域でも自動運転が目指すべき目標として具体化してくるのではないか。

“妄想“だ、とお叱りを受けることを知りつつ、、、

工場管理 維新